志賀島から発見された“金印”の意味するもの

志賀島から発見された金印“漢委奴国王”と記されたこの金印の価値は“三種の神器”を超えるものがあります。

なのにその発見場所の粗末さは何を意味するのでしょうか?

 

天明4年(1784年)3月23日に、志賀島の百姓“甚兵衛”が私有地の“叶の崎”の水田の溝を補修していた時に見つけたのです。

小さい石が積んであった下に、2人で持ち上げられるほどの石があり、これを金梃子で動かしたら“コロッ”と金印が出てきたのです。多分木箱にでも入れられていたのでしょう。朽ち果てて金印だけが出てきて、他には何も出てこなかったのです。

 

宝の中の宝と言える金印の出土にしてはあまりにも“お粗末”なのです。

副葬品が何もなく、王墓の形跡がないのです。

そして志賀島には甕棺墓地さえ発見されていない。

 

何故“金印”だけが“隠匿”されたのでしょうか。

 

金印の文字からして、“奴国王”がもらったのには間違いない。

 

奴国は南を脊振山地、東を三郡山地で境とした博多湾に面した地域です。

平原王墓のある“伊都国”の2倍の広さを持っています。魏志倭人伝によると“2万余戸有り”とあり、戸数も2倍です。

 

この、“奴国王”が“金印”をもらったのです。諸国王の身分でありながら・・・

 

ここに“金印の謎”が秘められているのです。

 

“奴国王”は海上交易の権益を持つ諸国王だった。密貿易をしていたかもしれない。

倭王の使者の身でありながら、漢の光武帝から“漢委奴国王”と記された“金印”を貰ったのです。

 

しかしこれは“倭王”が貰うべき物であって、諸国王が貰うべき物ではなかった。ここにあの志賀島の海岸近くの二人持ちの石の下に隠匿される運命となり、奴国王はここから落ち延びていったのです。多分殺されています。

 

さらに話は次章へと展開していくのですが、次にこれを神話で検証してみましょう。

 

この“金印”が現代日本の悲劇の根本なのです。悲劇の金印です。


神話に見る悲劇

日本書紀“神代、下”の最後のあたりで登場する“海幸彦”、“山幸彦”の神話がこの事を描いているのです。

 

兄の釣り針を失った“山幸彦”に、執拗に元の釣り針を返せという兄の“海幸彦”。

呆然と海辺にたたずむ“山幸彦”に近づいてきた“塩土老翁(しおつちのおじ)”が“山幸彦”を海神国へ案内する。

この海神国で“山幸彦”は“豊玉姫”と出会い“妻”とした。

海神は兄の釣り針を見つけ、それと共に“潮盈玉(しおみつたま)”、“潮乾玉(しおひるたま)”を“山幸彦”に与えた。

“山幸彦”はこの“潮盈玉”、“潮乾玉”を使って“海幸彦”を懲らしめた。

 

これが大まかな“海幸彦”、“山幸彦”の神話です。

 

 “火瓊瓊杵尊(ほのににぎのみこと)”の長男が“火照尊(ほでりのみこと)”(海幸彦)であり、三男の“彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと)”が(山幸彦)で、長男が三男と争って負けたのです。“火照尊(ほでりのみこと)”(海幸彦)が“奴国王”であり、三男“彦火火出見尊”(山幸彦)に討伐されたのです。

 

この神話の結末として“金印”が実在しているのです。

 

漢の光武帝から金印を貰った“火照尊”を海神国から“潮盈玉”と“潮乾玉”を貰った“彦火火出見尊”が討伐したのです。

ところが、この“海神国”とは、光武帝の漢の国なのです。光武帝から支援を受けて、光武帝から“金印”を貰った兄を、弟が討伐したのです。

 

まさに“悲劇の神話”です。

 

そして現代日本の悲劇がここから出発しているのです。

 

日本が他国からコントロールされる国になったのは、正にこの時からなのです。


天照大御神の悲劇

平原弥生古墳に葬られた“天照大御神”の埋葬状況です。

鏡がほとんどすべて割られた状態で出土しました。

 

鏡を割って埋葬することなど考えられないことなのです。

 

この古墳に葬られた“日ノ御子”の死因が謎を解くカギになります。

 

原田大六氏は、台風退散の祈祷の最中に、すぐ近くの大木が倒れて、その為に鏡が破砕して“日ノ御子”も死んだと解釈しておられます。

 

確かに日本書紀にもその記述が見られますが、歴史は勝者によって書き換えられるとするならば、真実は隠されます。日本書紀は犯人を特定しています。“素戔嗚尊”を犯人としているのです。

 

“素戔嗚尊”は台風退散の祈祷師でもありました。彼の力が足りなかったから“天照大御神”が死んでしまった。

として、その責任を取らされて、全ての髪の毛と手足の爪を剥がされて壱岐の島に島流しにされたのです。

 

“素戔嗚尊”を祭った神社が日本では最も多いのに、その素戔嗚を日本人最大の罪人にしてしまっているのです。

 

真実は少し違いそうです。神殿が壊れても全ての鏡が破砕するとは考えられない。故意に割ったと考えるのが自然です。

 

ここで登場するのが“山幸彦”なのです。海幸彦を追って漢の国に渡った“山幸彦”は、漢の国で“金印”以上の待遇を受け、倭国の大王になる支援と約束を漢の国から貰ったのです。そして、海神国の豊玉姫の子を初代天皇にすべく“日ノ御子”に迫ったのです。

 

もちろん“日ノ御子”がそれを受け入れるはずもなく、しかし古き良き縄文の日本は“海神国”に身も心も売り渡し始めていたのです。

孤立した“天照大御神”、“日ノ御子”は全ての“青銅鏡”を破壊し、自決して果てたのです。

 

これが“天の岩戸隠れ”であり、天の岩戸を開いて現れた新しい”天照大御神”は海神国の人間だったのです。


山幸彦は漢の光武帝から何を貰ってきたのか

前漢末以来の混乱で中国は疲弊し、前漢最盛期で約6千万人となった人口が光武帝の時代には2千万ほどに減少していた。その為様々な国内政策、改革を行い、財政再建に努力していた。

対外関係においては朝鮮半島の楽浪郡で後漢初頭以来の自立勢力を30年(建武6年)に討ち、郡県制による直接支配をおこなう一方、半島東方の首長を県侯に封じたり半島南部からの入貢者を容れて楽浪郡に属させるなど、直轄することを放棄した地域では間接支配をおこなった。王莽が侯に格下げ

した高句麗は32年(建武8年)に後漢に朝貢し、前漢以来の王号が復活された。

 

光武帝は東方の支配地を倭国まで広げようとしたのです。手始めに“金印”を与えたのです。

諸国王である“海幸彦”に“金印”を与えることで、倭国の“国内分裂”を画策したのです。

それは見事に成功し、倭国王の“怒り”を引き出すことに成功しました。

 

倭国王は“山幸彦”に“海幸彦”討伐を命じます。“山幸彦”に追われた“海幸彦”は“金印を”志賀島の海岸に隠し、光武帝を頼って落ち延びていったのです。光武帝は“海幸彦”を匿い、追ってきた“山幸彦”には、“海幸彦”捜索に協力する素振りを見せながら、“山幸彦”を手厚く接待し、自分の娘を妻に迎えさせたのです。そしてその子を倭国の天皇にする策略を開始するのです。

 

“海幸彦”が“山幸彦”の前に引き出されてきたことは想像に難くない。

 

“海幸彦”が“光武帝”から帰りに貰った“潮盈珠”と“潮乾珠”とは何だったのでしょうか?

孤高の歴史学者“原田大六”も最後までけつふろん結論を出せず苦しんでおられたようです。

 

倭国に天皇制を引き、統一王朝を作るには武器とあとは船でしょう。“潮盈珠”とは武器、“潮乾珠”とは、海の水が乾いて無くなったかのごとく移動できる軍船だったのです。その軍船に“光武帝”の孫娘“豊玉姫”を乗せて“海幸彦”は堂々と凱旋したのです。“海幸彦”の首を下げて・・・

 

まさに“悲劇の金印”だったのです。

 

そして“山幸彦”が次の倭王になったのです。日本占領政策の開始でした。

神武東征とは、光武帝による日本の統一政策だったのです。日本が“パワー”の国から“フォース”の国に落ちた瞬間です。


伊勢神宮に祭られている“天照大御神”は誰

漢の“光武帝”にたましいを吸い取られた“山幸彦”は帰国後“光武帝”の政策に沿って国内の政策を推し進めていきます。

 

その時最も大きな障害は、倭国の信頼を一手に引き受けていた“天照大御神”だったのです。

倭国の心の拠り所だった“天照大御神”を味方につけなければならなかったのですが、“日ノ御子”が猛反対したことは、想像に難くない。

 

両極の意見の対立があったのです。縄文の古き良き時代が、“光武帝”の占領政策で変えられていくのを、“日ノ御子”はどんな想いで見ていたのでしょうか?

 

そして遂に“日ノ御子”は自死をもって倭国に危機を知らしめようとしたのです。全ての鏡を破壊して、首を吊ったのです。櫓風の高い宮殿の中で、自分の主宰神である太陽が出てきた時、日の出と同時に自死したのです。

 

これが“天の岩戸隠れ”です。“日ノ御子”を失った倭国の人々の嘆き悲しみは大きく、倭国全体が闇夜になった感がありました。

 

宮殿のすぐ南に“殯宮(もがりのみや)”が建てられました。

倭国全体から訪れる弔問の人達は止むことがなく8か月に及びました。

“日ノ御子”の葬儀の様子は何故か残されていません。あまりに沢山の人々が訪れたため、これを記録することは新政権にとって好ましいことではなかったのです。

 

“日ノ御子”の殯が終了すると“殯宮”を撤去しその真下に遺体を埋葬したのです。

 

その間に新しい八咫鏡を鋳造し、“山幸彦”の想いに同調できる巫女を新しい“天照大御神”として誕生させたのです。

 

これが“天の岩戸開き”の神事なのです。

 

この新しい“天照大御神”は大陸の人間だったのです。そして彼女は“宇宙とつながることの出来ない”心の持ち主でした。

その為先代“天照大御神”の残した“パワーストーン”の力も、意味も、使用法も分からなかったのです。

おかげでこの“パワーストーン”は残され現存しているのです。

 

伊勢神宮のご神体である“八咫鏡”はこの天の岩戸開きの時につくられたもので、天皇家を経て伊勢に鎮座した物です。

ところが大変に大きな違いは、“パワーストーン”に乗せられず、“宇宙エネルギー”が入れられなかったのです。

ただの青銅鏡なのです。おまけに天皇家も、伊勢神宮も火災にあっており、この時の八咫鏡が現存している可能性は薄いのです。

 

そして祭られている“天照大御神”はこの“大陸から来た”人間“天照大御神”なのです。大陸支配のために利用されているのが伊勢神宮なのです。

“天照大御神”のお札を中心に祭るのは、土着の神々、縄文の神々を封印するためなのです。

これもまた、大陸の人々の征服政策の一つなのです。