大山津見神の使命

“瓊瓊杵尊”の妻“ 石長比売(いわながひめ)”と“木花開耶姫(このはなさくやひめ)” の父“大山津見神(おおやまつみのかみ)”です。“伊都国”の隣“奴国”の王でした。

 

 義理の息子“瓊瓊杵尊”が伊都国の王“倭王”として“忍穂耳命”から政権を引き継ぎ倭国統一へ向けて動き出そうとしていました

 

時代は稲作が始まり“富”の蓄積が始まっていたのです。貧富の差が出来はじめ、富める者と、貧しい者の格差が広がっていた時代でした。新しい息吹と共に、新しい世界の構築に様々な想いが交錯する混沌とした時代でもありました。

  

この時中国でも財政改革、政治改革を光武帝が推進していたのです。そして光武帝は東方の支配地を倭国にまで広げようとしていました。この改革を“瓊瓊杵尊”は知っていたのでしょう。この光武帝の政治改革の一部を、倭国にも持ち込もうとしたようです。

 

“瓊瓊杵尊”の支配は“奴国”国王に自分の長男“火照尊(ほでりのみこと)“を配し、倭国統一に向けて後漢“光武帝”とのつながりを強めていました。

 

その政策に疑問を抱いていた“大山津見”が“瓊瓊杵尊”や三男“火遠理尊(ほおりのみこと)”と、もめていたであろうことは想像に難くない事です。

 

“ 石長比売(いわながひめ)”を醜いと言って、大山津見に返したりしているのですから、伊都国と奴国の関係はあまり良くなかったようです。

 

その“大山津見神”の前に、思わぬ造反者が現れたようなのです。それがあの世の世界から推察できるのです。

 

“大山津見神”は“不本意な死に方”をしたようで、死後“四次元幽界”を彷徨っていました。自分を過小評価するものの存在に怒りをもって彷徨っていました。自分の想いはもっと深く“倭国のために行動した”と言っていました。

 

“瓊瓊杵尊”の三男“火遠理尊(ほおりのみこと)”が当事者のようです。“大山津見神”は、“瓊瓊杵尊”の三男“火遠理尊(ほおりのみこと)”に殺されたようです。邪魔者は消されたのです。

 

その後を継いだ“奴国”王、“瓊瓊杵尊”の長男“火照尊(ほでりのみこと)“は、“大山津見”の想いの方に傾いたようです。次期“伊都国王”であり、倭王となる三男“火遠理尊”と長男“火照尊”の関係は敵対するものとなっていきました。

 

この時に“金印事件”が偶発的に起きたのか、意図して起こされたのかは定かではありませんが、諸国王である“奴国王”が倭王を差し置いて最高の地位にある“金印”を手にすることになるのです。

 

すべてが絡み合って、すべての偶然と必然が絡み合って、悲劇の金印事件が起こったのです。神が倭国を試すために与えた試練とも受け取れるのです。この事件を境に倭国は混乱の時代へと突入していくのです。“奴国”討伐を命じたのは“瓊瓊杵尊”でしょう。

 

そして悲劇の“金印事件”が起き、長男“火照尊”は光武帝の下へ脱出するのです。それを追った三男“火遠理尊”は“光武帝”の下で“瓊瓊杵尊”の想い以上に、“光武帝”の狡猾な策略にはまってしまうのです。凱旋した三男“火遠理尊”は光武帝の孫娘“豊玉姫”を妻として連れてきたのです。

 

まさに明治維新の若き志士たちが、グラバーの財政力と一見煌びやかな欧米文化に惑わされて、古き良き江戸文化を跡形もなく消し去った明治維新と重なり合うのです。

 

この後三男“火遠理尊”は“光武帝”の後押しを利用して倭国光武帝政権の樹立に向けて動いていくのです。そして初代天皇“神武”が誕生するのです。ただこの神武政権はうまく稼働しなかったのです。突然の外来政権が順調に稼働するはずもなく、倭国の女王“卑弥呼”を立ててやっと倭国の安定を迎えるのです。そして大陸政権と倭国政権のせめぎあいの中で現在の日本の状況が生まれているのです。

 

“大山津見”の使命は“倭国光武帝政権”の阻止にあったのでしょう。“大山津見神”の想いを受け止め、現代の混沌とした社会情勢の中から、2,000年の経験を無駄にせず“成熟した倭国”を作り出すのが我々現代人に課せられた使命なのです。