この石がこの砂浜にさかさまに突き刺さった状態でありました。
木の切り株かなと思って足で蹴ってみたらコロンと転がりました。
一瞬でただならぬパワーを感じました。妻が海岸に感じたエネルギーはこれだったのです。
「善悪を知る木」と「命の木」が今回の宇部への旅の目的でした。
「命の木」のエネルギーです。
創世記第3章、 人が「善悪を知る木」から木の実を食べた時、主なる神は言われた。
「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかもしれない」
そこで主なる神は彼をエデンの園から追い出して、人が造られたその土を耕させられた。神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守れせられた。
「命の木」は創世記第3章の時点ですでに人の目に触れないものになったのです。
神は人に「善悪を知る知恵」をお与えになったのです。悪を乗り切る学びをお与えになったのです。
善悪を知ることとは、人が自分の知識で、生きて行くことを体験し始めたということなのです。
私利私欲がはびこり、すべてその心に思いはかることが、いつも悪いことばかりであるのを、悲しんだ神はノアの洪水を起こして、すべてを滅ぼしたのでした。
ノアの洪水が終わった時神は「わたしはもはや二度と人のゆえに地をのろわない。」と言いましたが、「しかし肉を、その命である血のままで、食べてはならない。あなたがたの命の血を流すものには、私は必ず報復するであろう。いかなる獣にも報復する。兄弟である人にも、わたしは人の命のために、報復するであろう。人の血を流すものには、人に血を流させる」
これが神と人との契約なのです。
白土海水浴場と近くで見つけた2個の石です。
「命の木」と「善悪の木」です。
右下の「善悪の木」の石を外すと、「命の木」のエネルギーが消えてしまうのです。
この二つは対でないとその存在を維持できないのです。神がはえさせた「命の木」と「善悪の木」はふたつでひとつなのです。「命の木」を芽吹かせるには「善悪の木」が必要なのです。
人を創造した後、神は人に「善悪を知る」ことを教えたのです。最初にして最後の課題です。
人はその後今日に至るまでその課題を乗り越えられずにいます。
小さな「善悪を知る木」のことを大いなる存在は「知恵」だと教えてくれました。これまで人は「知恵」ではなく「悪知恵」、「猿知恵」、「浅知恵」、「入れ知恵」ばかりで生きてきたのです。
このエネルギーが下りてきたというのは、そろそろ人が「知恵」に目覚める時がやってきたということです。
「原罪意識」に注意しましょう。
神は、「善悪」を人に教えましたが、これは人に「課題」として与えたのであって、「生まれながらに人が罪を背負っている」のではありません。
私が19歳の時に、統一教会の門をたたいて、「宗教に救いがあるか」を確かめに行きました。富士の裾野の研修会に参加したり、沢山の人と触れ合ってみました。
そこで原罪意識に触れたのです。「人は禁断の木の実を食べた時から、罪穢れた存在になった。だから神に救ってもらわなければならない」と教わったのです。
その時統一教会の人に言いました。「ごめんなさい。私は罪穢れてないから、キリスト教は信仰しない」と言いました。宗教に救いは無いことを確信しました。
聖書にそんなことは書いてありません。神は人に委ねています。悟るまで見守る約束をしています。
宗教が戦争をしたい人のために利用されているだけです。「人は罪穢れている。だから殺しても構わない」これだけです。だから原爆を投下できるのです。無差別爆撃が出来るのです。人を殺すことに躊躇が無いのです。
「人の血を流すものには、人に血を流させる」と神は言っているではありませんか。原罪などは存在しません。宗教は信仰しませんが、聖書は19の時に統一教会の方からいただいたものを、今でも座右の書として折に触れて紐解いています。